沿革
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1938年
丸善商会発足 甘草エキスの製造を開始
創業者の日暮喜八は、大阪の薬種商から誘いを受け、甘草エキス事業の創業を決意する。1938(昭和13)年に広島県御調郡向島西村有井(現・尾道市向島町有井)の醤油醸造工場跡に「丸善商会」を設立。集ったメンバーは、日暮を含め、5人。甘草を煮出す釜は3石(540リットル)入りの三州釜がひとつだけ。生産したエキスは静岡以東、関東一円の醤油醸造家へ直接販売して回った。
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1942年
戦時統制下に朝鮮甘草工業設立
第二次世界大戦の勃発で、輸入甘草は農林省令で「統制」となる。危機に立たされた日暮喜八は、朝鮮甘草工業株式会社の設立に参加。甘草の輸入の途絶えた内地市場に向けて固形の甘草エキスを生産した。
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1949年
丸善化成株式会社を設立(70年の歴史スタート)
丸善商会は丸善化学工業所と改称。戦後の経済回復に伴って世の中が「作れば売れる」市場環境になっていくなか、1949(昭和24)年にこれを発展的に解消して、丸善化成株式会社を設立。町工場から脱皮し、会社法人としてカラメル製造で再スタートを切った。
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1950年
戦後初の甘草エキス製造開始
戦争により甘草が入手できなくなる中で、事業の支えとなったのはカラメル製造だったが、1950(昭和25)年に日本の貿易が再開されることになり、日暮喜八はさっそく甘草エキスの製造再開を決意した。当時好調だったカラメルの製造を中止し、先行きが不安な甘草エキスを生産するという決断には役員から強い反対を受けたが、結果的に日暮の読みは当たる。その後、新規参入のカラメルメーカーらが過当競争を繰り広げる中で、丸善化成は独自の道を歩むことができた。営業担当者は、「宝甘味」と「徳用甘味」と名付けたブランド商品を販売して回った。
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1952年
向島東村(現本社工場)に移転
1952(昭和27)年に本社を旧尾道市街対岸の御調郡向島東村字沖彦ノ上(現在本社地・尾道市向東町)に移転。敷地は575坪(約1,900平方メートル)、価格は90万円だった。
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1958年
高純度なグリチルリチン酸の製造に成功
日暮喜八はある薬学博士との出会いから、甘草から抽出されるグリチルリチンを薬品メーカー向けに販売できないかと考える。しかし、当時の製品は医薬品に使用するには純度が低く使い物にならなかった。そこで数年にわたり精製方法の研究に取り組んだ結果、1958(昭和33)年に高純度なグリチルリチン酸、グリチルレチン酸の製造に成功した。
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1959年
丸善化成で医薬品の製造販売を開始
高純度なグリチルリチン酸、グリチルレチン酸を用いた医薬品メーカー向け製品、またリコレックス、リコレックスPについて、1959(昭和34)年3月に厚生大臣から承認許可を受け製造販売を開始した。
甘草エキスNo.2納入開始
甘草エキスの用途のひとつであるタバコ用フレーバーとしての利用について、丸善化成は日本専売公社中央研究所での開発に協力し、同年12月から特殊処理甘草エキスNo.2を納入開始した。
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1963年
旧丸善製薬株式会社を設立
尾道第一工場完成(後の尾道西工場)医薬業界向けの事業をさらに推し進めるべく、1963(昭和38)年2月28日に医薬品の製造工場として尾道市吉和西元町に尾道第一工場を完成させた。また同時に、それまでの丸善化成の医薬品部門を分離・強化するために、丸善化成の東京営業所に本社を置く丸善製薬株式会社(以下、旧丸善製薬)を設立。医薬品についての専門的な知識を持つ人材を社内で育て上げ、研究に取り組む体制を整えた。研究開発の方向性については、先発メーカーとの競合を避けるために、医家向けに的を絞り、用途では注射や点眼薬に力点を置いた。
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1965年
グリチルリチン酸ジカリウムの製造承認を厚生大臣から受ける
旧丸善製薬では1965(昭和40)年にグリチルリチン酸ジカリウム、翌年にはグリチルリチン酸、グリチルリチン酸モノアンモニウム、グリチルレチン酸の製造に係る許認可を相次いで受けた。同時に丸善化成では、グレードの異なる医薬品原料を販売し、市場創造の面で大きな役割を果たした。
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1977年
丸善化成がステビアの抽出をスタート
オイルショック後の1975(昭和50)年、高甘味度甘味料のステビアが市場に登場。丸善化成はこのときすでに新しい甘味料のステビアに注目していた。原料調達の難しさが課題だったが、南九州で栽培できると判明し、日暮兵士郎はステビオサイドに取り組む決意をした。そして1977(昭和52)年にステビアの抽出をスタートした。
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1979年
旧丸善製薬が化粧品製造業許可を取得
1984(昭和59)年に化粧品製造業の業態許可を取得。この許認可実績をもとに化粧品メーカーヘの販売活動を展開。
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1980年
旧丸善製薬が医薬部外品製造業許可を取得
甘草以外に事業の幅を広げていくため、医薬部外品製造業許可を取得し、生薬エキス分野に参入した。
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1982年
広島県食品工業試験場からの技術移転パイロット事業として牡蠣の抽出をスタート
1982(昭和57)年、広島県食品工業試験場から、丸善化成に牡蠣を生かした調味料の共同開発の申し入れがあり、研究を開始。調味料として使用するには価格面で難しいという結論に一旦は落ち着いたが、牡蠣エキスを調味料ではなく、健康食品原料として転換し、1983(昭和58)年には、自社でも牡蠣エキス粒の販売を開始した。
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1983年
旧丸善製薬が手がけた最初の生薬エキスとなるセンブリエキスを製造
化粧品メーカーからの要望に応え、センブリエキスを初納入。以降、申請ノウハウや許認可実績を積み重ね、医薬品以外の新しいマーケットを開いていった。
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1985年
水資源や立地条件にも恵まれた三次工場竣工
本社工場にあった多目的抽出装置が牡蠣エキスの製造でキャパシティ不足を来たしたこと、また「脱甘味の専用工場」としてキラヤサポニン、サンカノンなどの生産を担う工場として新たな設備が必要になり、三次工業団地に工場を建設した。水資源に恵まれていることも理由のひとつだった。
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1989年
豪州フィンレーに甘草栽培を目的とするループラン社を設立
原料調達の危機に備え、バイオテクノロジーによって甘草の優良株を栽培し、グリチルリチンを安定的に確保することを計画。そのため1984(昭和59)年に松永工場内に種苗センターを設置。1989(平成元)年には甘草を栽培するために、オーストラリアに土地を取得し、現地法人ループラン(ROOPRUN)社を設立した。
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1991年
両丸善の発展的統一のため合併契約を締結
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1994年
CP事業を推進
1990(平成2)年に重点指針として川下作戦の展開が謳われ、消費者向け商品(Consumer Products)を扱うことに。1994(平成6)年に発売された尾道健膳館シリーズの薬膳スープを突破口として徐々に事業を拡大していった。
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2000年
総合研究所の設置
広島県芦品郡新市町(現・福山市新市町)にそれまで各工場に分散していた研究開発部門の集約が図られ、2000年にまず基礎研究と企画系のグループ、翌2001年に食品と薬粧の開発、品質保証のグループが合流することにより、丸善製薬の研究・開発が総合された「総合研究所」として新たに産声をあげた。
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2001年
特販営業部を設立 健康食品OEM事業への進出
販社に直接提案を行っていたため、一部の販社から「末端商品に仕上げて納入してほしい」という要望が少しずつ入るようになっていた。市場での健康食品ブームもあり、特販営業部を新設。原料バルクとは異なり、社内のルールなどが何も整備されてない中でのスタート。苦労も多かったが、原料を採用する顧客の立場で原料を見た経験が、現在の丸善製薬の提案のなかに生きている。
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2005年
新尾道工場竣工
2000年代に入り生薬エキスの需要が伸びていく中、尾道西工場は設備の老朽化とキャパシティ不足が目立ちはじめたことから、尾道流通団地に新尾道工場を建設した。少量多品種生産を目指し「コンビニエンスファクトリー」というコンセプトを掲げた。
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2007年
丸善貿易(上海)の開設
中国における販売と調達の両方を活性化させるため、新たな拠点づくりを検討。およそ半年の準備期間を経て、2007(平成19)年4月、上海市に現地法人「丸善貿易(上海)有限公司」をスタートさせた。
久井ファームの開設
2001(平成13)年に発足した「グリーン作戦プロジェクト」で、植物エキスの抽出残渣の処理が重要なテーマと位置づけられた。そこで抽出残渣や汚泥を発酵させ、堆肥化して自社農場で有用植物を栽培する際に用いることができれば、植物工キスの抽出事業において循環サイクルを実現するという構想を打ち立て、2007(平成19)年に自社農地を確保し、久井ファームをスタートさせた。
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2016年
丸善化粧品原料セミナー初開催
世界で通用する化粧品原料を提供するという使命のもと、顧客に直接情報発信を行い、関係強化を図るため、初めて化粧品原料のセミナーを開催。前例のない取り組みのため、集客面などで不安があったが、「これからの化粧品を考える」というテーマに対し、多くの顧客にご参加いただき、大盛況となった。
ブラックジンジャーの機能性表示食品届出受理
「中高年の歩行機能の維持の訴求内容で丸善製薬として初めて消費者庁への届出が受理された。その後も2018(平成30)年に「脂肪を消費しやすくする」、2019(平成31)年に「腹部の脂肪を減少する」内容で相次いで機能性表示が可能になり、ブラックジンジャーの今後さらなる広がりが期待される。